ボカロPはメディアミックスの夢を見るか?:roll modelからroll modelsへ

■ストーリー性のある歌詞の増加

ここ最近、VOCALOIDを用いた楽曲にストーリー性のあるシリーズものの歌詞をつける傾向が増えてきている印象があります。もちろん、シリーズものの歌詞をもつ楽曲自体は以前からありました。ささくれPさんによる「終末」シリーズなどの名作群がその例ですし、再生数の少ない動画でもシリーズものの歌詞を採用している楽曲はたくさんあります。なので、より正確に言えばボーカロイドランキング(@ニコ動)の上位に入る最近の楽曲にストーリー性のあるシリーズものの歌詞が増えている、ということです(ここでは不要な誤解を避けるため、作者・作品名などは出しません)。

なぜストーリー性のある楽曲シリーズが好まれているのか?理由の一つとしては、ストーリー的連続性のない単発の良作品をガンバって作り続けるよりも、ストーリー性のある楽曲シリーズを作った方が固定リスナーを獲得しやすいからです。ニコ動上では、いまや膨大となったコンテンツの中から自分の作った一作品をクリックして再生してもらうというだけでもなかなか大変です。ここではコンテンツに対する注目(アテンション)が死活的に重要となっており、視聴者のもつ有限なリソース(時間もアテンションも有限なリソースです)を自作品に対して継続的に「投資」してもらうためには様々な工夫が必要になってきます。そこで有効な方法の一つがストーリー性のある楽曲シリーズを作ることであり、これは1曲ヒットすれば、ストーリーの先が気になる視聴者からの継続的な注目を得ることが出来るので、相対的に固定リスナーを獲得しやすくなるのです。

■批判、炎上

話がこれで終わればいいのですが、しかし、ここには多少やっかいな要素がからんでいて批判や炎上のネタになったりもしています。なぜそうなるかというと、アニメ化・コミカライズ等のメディアミックスを狙って(あるいはそれを前提として)一連の楽曲が作られているように見えるからです。ストーリー性のある楽曲シリーズに対して、大手企業と結託した「トップダウン」式の商業主義と、ニコ動ボカロ作品がもつ「ボトムアップ」式の文化が衝突しているという批判の声も一部で聞こえます。あるいは、商業主義それ自体を嫌悪するような声も。問題の本質はどこにあるのでしょうか。

ここでひとまず言えるのは、商業主義それ自体を批判しても意味がない、ということです。私たちはみな市場経済のなかで生活しており、人気の高い作品を作ったクリエイターに対しては相応の金銭的ベネフィットがあって当然です。そもそも人気ボカロPが続々とメジャーデビューしている現状において、ビジネス活動それ自体に批判を向けるのは難しいでしょう。大手企業によるメディアミックス前提の商業主義は“悪い商業主義”だけど、ボカロPのメジャーデビューは“良い商業主義”だ、みたいなナンセンスな話にもなりかねません。

では「トップダウン」vs「ボトムアップ」という文化的対立についてはどうでしょうか。これは図式としてはわかりやすいのですが、ニコ動を運営するdwango自体が角川グループやavexなどと提携している企業なので、いまいち批判のピントが合っていない気がします。ニコ動という場はボトムアップトップダウンも混在した独特のプラットフォームなので、公式・非公式にいろいろな企画があります。なので、大手企業が絡んだ時点で「仕組まれた」ヒットだ、という陰謀論めいた批判をするのは現実にそぐわない。まさかメディアミックス前提で作られた作品を排除するというわけにもいかないでしょう。現に人気のある作品ですし。

ロールモデルの複数性が大切

というわけで、結局これに関する私の考えとしては、ロールモデルが単一化してしまうことが一番の問題なのだ、というものです。メディアミックスという輝かしい成功のモデルが提示されると、誰もがこぞってそれを狙った作品作りに精を出すようになる。また視聴者としても、お気に入りの作品の再生数が増えて人気が出ればそれだけメディアミックスの可能性が増えるので、そういった作品をとりわけよく聴くようになる。その結果、ストーリー性をもった楽曲シリーズばかりが作られ、聴かれ、ヒットする…。この書き方はかなり誇張されているかもしれませんが、こういった流れが現実になってしまうと、ボカロ文化自体にとって損失が大きいと思います。別に私は、ストーリー性のある楽曲=悪とか、メディアミックス=悪、と言いたいのではありません。あくまでも、ボカロ文化がひとつの成功モデルへと収斂していくような動向がちょっとアブナイなあと思っているだけです。これが一時的な流行現象ならよいのですが…。

もちろん、ロールモデルが存在すること自体はよいことです。現に、ゼロからの出発や未開拓分野への挑戦などの場合であれば、単一のロールモデルは有効です。みんなに夢を見させてくれるひとつの成功例がありさえすれば、夢を追って新規参入するプレイヤーが増加し、クリエイティブな場の規模自体が拡大するからです(=アメリカンドリーム!)。しかし、現在のボカロ文化のようにすでにかなりの程度成熟し、プレイヤーの数が増大した結果、いわゆる「良作」でも低い再生数で埋もれてしまうような現状においては、単一のロールモデルはもはや有効ではないどころか、害にすらなり得ます。成熟した文化圏においては、みなが同じひとつの夢を見る必要はないのです。

ボカロ文化において、作られる作品・聴いてもらえる作品の多様性が確保されるためには、ロールモデルが複数化している必要があります。例えばジャズ系の作品で人気が出た結果、『The vocajazz』などのコンピレーションアルバムに作品を収録して販売するなど、特定のジャンル内での成功モデルがあります。またトラボルタPさんによる《トエト》のように、優れた作品が公共交通機関のイメージソングとして採用される例もありました。その他、カラオケ配信や着うた配信等も含め、これまで小さなものから大きなものまで多数のロールモデルがあるのは言うまでもないでしょう。

格好つけてスローガン風にまとめると、「大きな roll modelもいいけれど、小さなroll modelsをもっとたくさん!」といったところでしょうか。なにやら「大きな物語は終わった。これからは小さな成熟を目指せ」みたいな、どこかで聞いた話になってきました。…ちょっと違うか?

そのためにリスナーとして出来ることは、埋もれた良作の紹介や支援、あるいは作品批評などでしょう。また作り手側として出来ることは、多様な作品の創作や、自作の特徴的な聴き所などをわかりやすい形で解説することなどでしょう(ストーリー性のある歌詞も良いけれど、他にもこんな音楽的魅力があるよ、みたいな)。…やや当たり前の結論に落ち着いてしまいましたが、今後のボカロ文化の多様な発展を楽しみにしている者の一人として書き散らしてみました。