さようなら、二人のキリンジ:《エイリアンズ》批評

キリンジが兄弟のデュオを解消してしまうというニュースが流れてからもうずいぶん経ったように感じる。先日“最後の”アルバム『Ten』が発売された。ああ、生きる楽しみがまた一つ減っていく…。なんて思ってしまうけれど、「キリンジ」の看板は兄の堀込高樹氏が引き継ぐとのことで、嬉しいような悲しいような。

キリンジは、日本の音楽シーンの中でも最も良質な音楽を作り上げてきたグループのひとつだった。堀込高樹氏・泰行氏ら兄弟は間違いなく天才である。そんなキリンジへの敬意を込めて、ここでは彼らの代表作《エイリアンズ》をあらためて取りあげ、批評してみたい。歌詞だけ、あるいは音楽だけを論じるのでは、作品の魅力はきっと半分も伝えられないだろう。歌詞の解釈と音楽分析を合わせた総合的批評。それがこの名曲を論じるのに必要な構えというものである。それによって、少しでもキリンジの音楽のすばらしさを伝えられたらよいと思う。

■音楽と歌詞

そもそも、音楽にとって歌詞(詩)とはなにか?両者の関係はどうなっているのか。
これはクラシックも含めると実に何百年も前から議論されている一大テーマだ。音楽と歌詞は切っても切れない関係、不即不離、などと言うのは簡単だが、実際には同一の音楽に異なる歌詞をつけた作品(あるいはその逆)は山のようにあるため、話はそう単純ではない。今回はこのテーマの中からごく一部、音楽と歌詞が共同しつつ優れた統一的効果を生んでいる例についてのみ書く。批評対象はキリンジの名曲《エイリアンズ》。だがこの作品を取りあげる前にまず、音楽が歌詞の内容にピッタリと寄り添っているクラシックの例を二つほど見ておこう。どちらも有名な例だ。

ベートーヴェン交響曲》第九番 Op.125(1826)第四楽章

第九では「歓喜の主題」が器楽によって奏された後、やや唐突にニ短調に転調し、“暗い”雰囲気のパッセージが流れる。その箇所に続くバリトンレチタティーヴォの歌詞が「おお友よ、その音調ではなく!O Freunde, nicht diese Toene!」。要するに、ここでは予想外に暗い音楽が流れるという“ボケ”に対して、声楽が「その音ちゃうやろ」という“ツッコミ”を入れているのだ。ちなみに、この楽曲ではこの箇所のみベートーヴェン自身が作詞している。

シューマン《ミルテの花》Op.25(1840)より第一曲「献呈」

【譜例1】

【譜例1】は二小節目の歌い出しの部分(左手伴奏は白玉音符のみに簡略化してある)。歌詞は「君はぼくの魂、ぼくの心、ぼくの喜び、ぼくの悲しみ」と歌っているのだが、「悲しみ=痛みSchmerz」の箇所で和声(コード)がもの悲しい短三和音(マイナーコード)に変化している。これは同主短調からの借用和音なのだが、「痛み」という歌詞にうってつけの切ない響きである。胸キュンコードと言っていい。

…と、このような音楽と歌詞が一体となっている例はクラシックにまだまだ無数にあるのだ。さすが千年以上の歴史をもつクラシック、奥が深い!(嘆息)。

■《エイリアンズ》批評

さてクラシックへの目配せも軽く済んだところで、ここからはさっそくキリンジ《エイリアンズ》の批評に移ろう。《エイリアンズ》は2000年に発表されたキリンジの6枚目のシングルで、とりわけ人気のある作品だ。歌は次のように始まる。

 「遥か空に旅客機(ボーイング) 音もなく 公団の屋根の上 どこへ行く」
 「誰かの不機嫌も 寝静まる夜さ バイパスの澄んだ空気と 僕の街」

情景描写に徹している上記Aメロの歌詞では、視線の誘導がとても巧妙ではないだろうか。最初に「遥か空」を見上げ、少し視線が降りて「公団の屋根」へ続き、さらに視線が降りて「バイパス」(ここで空と地上が結ばれる)を見渡し、Aメロの最後になって「僕」という単語が現れる。この「僕」という語によって、上から下へと降りてきた視線が最終的に眼差す者=自分自身へと収束する仕掛けになっているのだ。さらに、視線だけでなく視野に関しても巧妙な配慮がなされている。「遥か空」の「旅客機」という、遠い一点から「公団の屋根」の平面へ、さらに「街」という開けた全体へと視野は拡大していく。そのように見ると「僕の街」という最後のフレーズはとても印象的だと言える。「僕」という主体の一点へ収束する視線と、「街」という想像上の全体へ拡大する視野が、「僕の街」というさりげなく置かれたこのフレーズ上で見事に交叉するのである。

そして、このAメロの旋律はまるで視線と対応するかのようにゆるやかに下降する曲線を描き、「僕の街」のフレーズが楽曲中の最低音で歌われるように作られている【譜例2】。これがもし上昇する旋律で作られていたなら、音楽と歌詞の表現が乖離してしまい、その魅力は半減してしまっていただろう。(※1)

【譜例2】

次にコード進行に注目してみよう【譜例2】。このAメロ全体のコード進行はとてもシンプルに作られている。シンプル、というのはよく使われる進行を規則通りに使っている、という意味で、これはいわば「客観的」な明瞭さ・単純さをもつということだ。また、先に確認したとおり歌詞は「視線」を意識した情景描写に徹しており、カメラで切り取るような「客観性」をもっていた。ここに、音楽と歌詞が共同して作り出す「客観性」というひとつの効果を見ることが出来る。

これに対してBメロは「主観的」な表現が続いている。歌詞は次のように歌われる。

 「泣かないでくれ ダーリン ほら月明かりが 長い夜に 寝付けない二人の 額を撫でて」

「ダーリン」という語の登場によって、Aメロで垂直方向に降りてきた視線はふっと水平方向の「恋人」へとシフトし、「寝付けない二人」の語によって「僕と君」、二人を包む世界が語られることになる。この楽曲のまるで映画のような雰囲気は、こうした“カメラワーク”の巧妙さによるところも大きい。しかしそれ以上に、音楽と歌詞の表現がピタリと一致していることによって作り出される効果がとても魅力的だ。このBメロのコード進行は、先のAメロとはうって変わって「凝った」作りになっている。その理由は明らかだろう。歌詞が「主観的」な表現へ変わったのに合わせて、音楽もより特殊で「主観的」な表現に変わったのだ。音楽理論的にはDm7→Fm7→Gという最初のC major keyにおける進行が二度上に上がってd minor keyで反復されている【譜例3】。こうしたリニアな(=水平方向への)ずれを含む進行が、歌詞における視線の水平方向への変化と対応している、というのは考えすぎだろうか?少なくとも私にはそう聴こえるのだ(これは聴こえた者勝ちである)。

【譜例3】

ところで、「月明かりが」と歌われる箇所からは、とりわけ美しく儚げな印象を受けないだろうか?ここのコードはEm7であり、これ自体は特に変わったものではない。しかし私にはこの箇所はドリアンモードの響きに感じられる。そのヒミツは、Em7→Gm7→A7という1セットの進行全体がd minor keyで解釈されるため、Em7上の「シ」の音がドリアンモード上の音になるからである。このドリアンモードの響きは「月明かり」という歌詞と合わせて、続くサビに対する重要な布石となっている。そのことはすぐ後で述べよう。

さて、この楽曲のサビは次のように歌われる。

 「まるで僕らはエイリアンズ 禁断の実 ほおばっては 月の裏を夢見て」
 「君が好きだよエイリアン この星のこの僻地で 魔法をかけてみせるさ いいかい」

グッと引き込まれるコードが使われているのは「月の裏を」の部分だ。ここでは音階上の第四音が半音上がって(楽譜上でファ♯の音)ドリアンモードの響きになっている【譜例4】。サビのシンプルかつ王道的なコード進行の中で、唯一音階が「ゆがむ」部分であり、ふわっと宙に浮くような響きに感じられるだろう(※2)。ここで、先のBメロにおいてドリアンモードの美しい響きが聴こえた瞬間を思い出して欲しい。そう、「月明かりが」の箇所だ。つまりこの楽曲では「月」という歌詞の表現に沿うように、ドリアンモードで響きの統一が図られているのである(言うまでもなく「月」は「エイリアンズ」という主題の重要な関連語である)。とても優れた作曲上の手法と言えるだろう。

【譜例4】

さて、「月の裏を」と歌われる旋律の特徴を見てみよう。この旋律はコード(Bm7)に対する11th、13thのテンションノートだ。このテンションだけでも相当に目立って聴こえるわけだが、とりわけ13thの音(つきのう 「ら」 、の箇所。楽譜上でソの音)は、この楽曲全体を通して最高音が歌われる部分であるため最も印象深く聴こえるところである。
さて、この部分の歌詞だけを1番サビ、2番サビから抜き出してみると、

「月の裏を(夢見て)」
「魔法をかけて(みせるさ)」
「ごらん新世界の(ようさ)」
「魔法のように(溶けるさ)」

となっている。「月の裏」、「魔法」、「新世界」。これらはいずれも、音楽の高まりに合わせて注意深く選ばれた言葉たちであり、意味の上で共通性をもっている。月の裏は、見えない。魔法も、もちろん見えないだろう。ここは新世界などではなく、見えるのはあくまでもこの街であり、公団の屋根、旅客機なのだ。見えているこの街と見えない世界、此岸と彼岸、「ここ」と「ここではないどこか」。このような二つの世界を描くのがこの作品の一つの特徴である。そして今確認したように、「ここではないどこか」を示す幻想的な歌詞は、常にサビの最高音において歌われる。まさに、音楽と歌詞が一体となってこのような表現が達成されているのだ。しかし、この作品はそのような二つの世界を単に並列して描いているのではない。「ここ」は「ここではないどこか」と重ね合わされているのだ。此岸と彼岸、その二重性を媒介するのが「エイリアンズ」という表徴であり、その語に宿る想像力だ。エイリアンは日本語の場合「宇宙人」といったニュアンスで使われるが、元々はalienate=疎外から来ている語である。郊外的な日常風景の中に埋没する「二人」をエイリアンズ=疎外された者たちに見立てることにより、見慣れた風景(「ここ」)を別のもの(「ここではないどこか」)へと読みかえていく。こうしたアレゴリー的想像力が、この楽曲の表現上の魅力を作り出している。そして、その魅力は歌詞のみで達成されているのではなく、音楽と歌詞が共同して生み出す統一的効果によって、見事に達成されているのである。


※1.二番AメロBメロに詳しく触れる余裕はないが、ひとつだけ指摘しておこう。二番は「どこかで不揃いな遠吠え」と歌が始まる。これは視覚中心の一番Aメロに対して、聴覚からのアプローチであり、感覚上対照的な歌詞となるよう作られている。こういった細部も非常によく考えられている曲なのである。

※2.この部分のコード進行に関して、音楽理論に明るい人は、「なんだ、ただのツー・ファイブじゃないか」と思うかもしれない。たしかにその通りで、ジャズではおなじみのコード進行でありキリンジの他の楽曲でも頻繁に使われている。しかし、だからといって「ありきたりな」「よくある」音楽表現だとするのは早計である。どんなに使い古されたコードであれ、個々の楽曲の中での配置や歌詞、旋律との関係性を見なければ、「ありきたりだ」などとは断言できない。そしてこの楽曲のこの箇所においては、分析で示したとおり歌詞および旋律との関係性によって、希有で印象的な音楽表現たり得ているのである。

ボカロPはメディアミックスの夢を見るか?:roll modelからroll modelsへ

■ストーリー性のある歌詞の増加

ここ最近、VOCALOIDを用いた楽曲にストーリー性のあるシリーズものの歌詞をつける傾向が増えてきている印象があります。もちろん、シリーズものの歌詞をもつ楽曲自体は以前からありました。ささくれPさんによる「終末」シリーズなどの名作群がその例ですし、再生数の少ない動画でもシリーズものの歌詞を採用している楽曲はたくさんあります。なので、より正確に言えばボーカロイドランキング(@ニコ動)の上位に入る最近の楽曲にストーリー性のあるシリーズものの歌詞が増えている、ということです(ここでは不要な誤解を避けるため、作者・作品名などは出しません)。

なぜストーリー性のある楽曲シリーズが好まれているのか?理由の一つとしては、ストーリー的連続性のない単発の良作品をガンバって作り続けるよりも、ストーリー性のある楽曲シリーズを作った方が固定リスナーを獲得しやすいからです。ニコ動上では、いまや膨大となったコンテンツの中から自分の作った一作品をクリックして再生してもらうというだけでもなかなか大変です。ここではコンテンツに対する注目(アテンション)が死活的に重要となっており、視聴者のもつ有限なリソース(時間もアテンションも有限なリソースです)を自作品に対して継続的に「投資」してもらうためには様々な工夫が必要になってきます。そこで有効な方法の一つがストーリー性のある楽曲シリーズを作ることであり、これは1曲ヒットすれば、ストーリーの先が気になる視聴者からの継続的な注目を得ることが出来るので、相対的に固定リスナーを獲得しやすくなるのです。

■批判、炎上

話がこれで終わればいいのですが、しかし、ここには多少やっかいな要素がからんでいて批判や炎上のネタになったりもしています。なぜそうなるかというと、アニメ化・コミカライズ等のメディアミックスを狙って(あるいはそれを前提として)一連の楽曲が作られているように見えるからです。ストーリー性のある楽曲シリーズに対して、大手企業と結託した「トップダウン」式の商業主義と、ニコ動ボカロ作品がもつ「ボトムアップ」式の文化が衝突しているという批判の声も一部で聞こえます。あるいは、商業主義それ自体を嫌悪するような声も。問題の本質はどこにあるのでしょうか。

ここでひとまず言えるのは、商業主義それ自体を批判しても意味がない、ということです。私たちはみな市場経済のなかで生活しており、人気の高い作品を作ったクリエイターに対しては相応の金銭的ベネフィットがあって当然です。そもそも人気ボカロPが続々とメジャーデビューしている現状において、ビジネス活動それ自体に批判を向けるのは難しいでしょう。大手企業によるメディアミックス前提の商業主義は“悪い商業主義”だけど、ボカロPのメジャーデビューは“良い商業主義”だ、みたいなナンセンスな話にもなりかねません。

では「トップダウン」vs「ボトムアップ」という文化的対立についてはどうでしょうか。これは図式としてはわかりやすいのですが、ニコ動を運営するdwango自体が角川グループやavexなどと提携している企業なので、いまいち批判のピントが合っていない気がします。ニコ動という場はボトムアップトップダウンも混在した独特のプラットフォームなので、公式・非公式にいろいろな企画があります。なので、大手企業が絡んだ時点で「仕組まれた」ヒットだ、という陰謀論めいた批判をするのは現実にそぐわない。まさかメディアミックス前提で作られた作品を排除するというわけにもいかないでしょう。現に人気のある作品ですし。

ロールモデルの複数性が大切

というわけで、結局これに関する私の考えとしては、ロールモデルが単一化してしまうことが一番の問題なのだ、というものです。メディアミックスという輝かしい成功のモデルが提示されると、誰もがこぞってそれを狙った作品作りに精を出すようになる。また視聴者としても、お気に入りの作品の再生数が増えて人気が出ればそれだけメディアミックスの可能性が増えるので、そういった作品をとりわけよく聴くようになる。その結果、ストーリー性をもった楽曲シリーズばかりが作られ、聴かれ、ヒットする…。この書き方はかなり誇張されているかもしれませんが、こういった流れが現実になってしまうと、ボカロ文化自体にとって損失が大きいと思います。別に私は、ストーリー性のある楽曲=悪とか、メディアミックス=悪、と言いたいのではありません。あくまでも、ボカロ文化がひとつの成功モデルへと収斂していくような動向がちょっとアブナイなあと思っているだけです。これが一時的な流行現象ならよいのですが…。

もちろん、ロールモデルが存在すること自体はよいことです。現に、ゼロからの出発や未開拓分野への挑戦などの場合であれば、単一のロールモデルは有効です。みんなに夢を見させてくれるひとつの成功例がありさえすれば、夢を追って新規参入するプレイヤーが増加し、クリエイティブな場の規模自体が拡大するからです(=アメリカンドリーム!)。しかし、現在のボカロ文化のようにすでにかなりの程度成熟し、プレイヤーの数が増大した結果、いわゆる「良作」でも低い再生数で埋もれてしまうような現状においては、単一のロールモデルはもはや有効ではないどころか、害にすらなり得ます。成熟した文化圏においては、みなが同じひとつの夢を見る必要はないのです。

ボカロ文化において、作られる作品・聴いてもらえる作品の多様性が確保されるためには、ロールモデルが複数化している必要があります。例えばジャズ系の作品で人気が出た結果、『The vocajazz』などのコンピレーションアルバムに作品を収録して販売するなど、特定のジャンル内での成功モデルがあります。またトラボルタPさんによる《トエト》のように、優れた作品が公共交通機関のイメージソングとして採用される例もありました。その他、カラオケ配信や着うた配信等も含め、これまで小さなものから大きなものまで多数のロールモデルがあるのは言うまでもないでしょう。

格好つけてスローガン風にまとめると、「大きな roll modelもいいけれど、小さなroll modelsをもっとたくさん!」といったところでしょうか。なにやら「大きな物語は終わった。これからは小さな成熟を目指せ」みたいな、どこかで聞いた話になってきました。…ちょっと違うか?

そのためにリスナーとして出来ることは、埋もれた良作の紹介や支援、あるいは作品批評などでしょう。また作り手側として出来ることは、多様な作品の創作や、自作の特徴的な聴き所などをわかりやすい形で解説することなどでしょう(ストーリー性のある歌詞も良いけれど、他にもこんな音楽的魅力があるよ、みたいな)。…やや当たり前の結論に落ち着いてしまいましたが、今後のボカロ文化の多様な発展を楽しみにしている者の一人として書き散らしてみました。

みんな大好き。ドラクエ序曲のひみつ

誰もが一度は耳にしたことがある、すぎやまこういちさん作曲のドラゴンクエストテーマ音楽。さあ冒険の旅に出発するぞ、といった気分も高まる勇壮な雰囲気の名曲ですね。クラシックで同じ趣向をもつ作品といえば《ニュルンベルクのマイスタージンガー》序曲などが挙げられるでしょうか。

ここでは、《ドラクエ序曲》の音楽的な魅力を旋律の面から分析してみます。

まず、この作品の音楽スタイルについて。この作品は古典・ロマン派のスタイルに基づいて作曲されており、和声(コード進行)は比較的単純です。つまり、伝統的な機能和声の規則通りに作られているわけで、その点ではそれほど特徴的なところはないと言えます。が、しかし。この作品は旋律の作り方が非常に面白いのです。一言で言えば、完全四度を多用する旋律になっているのがこの作品の特徴であり、大きな魅力です。以下でそれを見てみましょう。

譜例のなかで印をつけてあるところが完全四度です。どうでしょうか?ものすごく多用されていますね。仮に譜面が読めずとも視覚的に一目瞭然です。ところで、完全四度とはなんでしょうか。音楽理論に明るくない方のために簡単に説明しておきますと、ある二つの音(ドとファなど)があり、その二つの音のあいだが半音5つ分離れている場合に、この二つの音の音程関係を「完全四度」と呼びます(本当はもう少しフクザツな規則があるのですが、ここでは割愛)。

一般にクラシックにおいては、近代音楽に近づくにつれて旋律に完全四度の音程が増加していくという傾向がありますが、私の知る限り、この作品のように古典・ロマン派の和声スタイルをきっちり踏襲しながら、完全四度の積み重ねによって全体の旋律を作り上げるという例はあまり無いと思います。また、旋律における完全四度のワク構造は「テトラコルド」とも呼ばれており、ふつう民謡や民族音楽などで多用されるものです。完全四度に基づく旋律はプリミティブで親しみやすい印象を持つ、と言い換えてもよいでしょう。そういえば、「た〜けや〜、さおだけ〜」の旋律も完全四度のテトラコルドですね。《ドラクエ序曲》の、気宇壮大でありながらどこか懐かしい響き、古くて常に新しいその魅力は、機能和声+完全四度の旋律という幸せなカップリングにあるのではないでしょうか。

最後に、ゲーム音楽全般についてちょっと一言。子供、とくに小中学生くらいの年齢の子が音楽に接する時間を考慮した場合、一番大きな影響力をもつのが「ゲーム音楽」ではないでしょうか。なにしろ一つのゲームをクリアするのに何十時間も同じような音楽を聴き続けるわけで、この年齢の子供たちにとってこういった長時間の音楽体験は、ゲーム音楽以外にはふつうありません。ですから、ゲーム音楽が幼年期の音楽的感性に与える影響力はとても強いのです。これはもうある種の音楽教育と言っても良いのではないか。学校で受ける音楽の授業でイヤイヤ「聞かされる」10分間のベートーヴェンなどより、ゲーム音楽の方がよっぽど子供の音楽的感性を育てていると思うのです(別にベートーヴェンの音楽がダメだと言っているのではありません。念のため)。小中学校における音楽教育の形骸化が一部で叫ばれている、その横で、子供たちは良質なゲーム音楽からしっかりと音楽を学んでいます。…何が言いたいかというと、ゲーム音楽作曲家が担う音楽教育上の責任はけっこう重大だということと、すぎやまこういちさんはやっぱり偉大だ!ってことです。

※旋律のどの部分を「完全四度」として切り取るのかは実のところわりと自由であり、唯一の正解があるわけではありません。このことは分析の恣意性や欠陥を意味するのではなく、逆に、その切り取り方そのものに音楽分析や聴取の個性が宿るのです。要は、「こう分析してみると(=聴いてみると)面白いんじゃない?」という提案であり、アナリーゼとは本来そういったものです(たぶん)。

ごあいさつ

はじめまして。

このブログでは音楽や音楽理論の小ネタ、音楽批評などを書いていきたいと思います。

他の活動として、Fantasieという名でVOCALOIDを用いた楽曲制作も行っています。
もし、一曲聴いてもいいよという奇特な方がいらっしゃいましたら、《ねこねこきまぐれ》という作品をおすすめいたします。
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